報道された内容によれば知人と登山して、下山の途中で胸の痛みを訴え、搬送先の病院でそのまま心筋梗塞のため亡くなったとのこと。どうしても通常の街中よりは病院への搬送に時間がかかったことと思われる。せめて、街中にいるときに発作が起きていれば、一命は取り止めてもらえなかったものかとも思います。もっとも報道によれば倒れてから1時間半ぐらいで亡くなっているようですので、それでも助からなかったかもしれません。詮ないことではありますが、後述するように日本ラグビーにとって唯一無二の人であっただけに、かえすがえすも残念で仕方がなく、つい上記のようなことも考えてしまいます。
出身の早稲田大学ラグビー部のサイトなどいくつかの場所に直接接した方が文章を出している方もおられますし、単なる一ファンだった私に特別なエピソードが書けるわけでもありませんが、ラグビーファンとして何らかのコメントを書いておきたい思いに駆られて、蛇足とは感じつつも、少し書かせていただきます。
別に個人的に知っていたりしたわけではないのですが、ニュースなどで情報に接するときにはファンとして親しみを込めて「宿沢さん」と勝手に呼んでいましたので、以下でもそうさせていただきます。
宿沢さんは、早稲田大学日本選手権二連覇の際のスクラムハーフですが、4年生のときには残念ながら大学選手権決勝で明治に破れており、実は「荒ぶる」の学年ではありません。その後、日本代表に入りましたが、仕事の都合で、それほど多くの代表キャップを持っているわけではありません。海外駐在が長かったそうです。私が宿沢さんを知ったのは、この海外に滞在しておられた時期です。現役時代を見ることができなかったのは残念です。
その後帰国して、日本代表監督となり来日したスコットランドXVに歴史的な勝利を挙げ、ラグビーワールドカップで現在に至るまで日本代表唯一の勝ち星を挙げました。その後の早稲田の監督のときには、私の期待ほどには勝てませんでしたが、日本代表の強化委員長のときなどに、さまざまな日本代表の周辺環境の改革を実行したそうです。
いま少し生きていていただければ、次か、次の次あたりに、宿沢さんがさらに周辺の整備を行い、代表チームの現場の指揮を清宮氏(前早稲田大学監督、現在サントリー監督)が執るというコンビで、ワールドカップでの2度目の勝利を見ることができたのではないかとも思います。たぶん、宿沢さんのこの早すぎる死によって、ジャパンの2度目の勝利はここしばらく遠のいてしまったのではないかという気さえしてきます。
能力的には日本代表クラスで活躍できる可能性のある人材は、まだ何名か思い当たりますが、実践の場で実際にある程度の結果を出している人としては、宿沢さんはほぼ唯一の存在でした。何しろ、上記したようにワールドカップという場で勝利を挙げた監督は宿沢さんのみですので。
次の日本代表の試合(パシフィック5カ国対抗のオールブラックスジュニア戦)は追悼の試合になるのでしょうが、次の試合のみなどと言わずに、次にワールドカップで勝利するまでのすべての試合を宿沢さんに捧げるくらいのつもりでも良いような気がします。厳しいようですが、現在の日本代表ではオールブラックスジュニアにはボロ負けしそうですし、そのような試合を捧げられても、宿沢さんは喜ばないのではないかと思います。
年齢的にも55歳とのことで、早すぎたという印象が強いが、どれだけの仕事をしてきたかというところから考えると、普通の人の一生分以上の仕事はしているとも思われます。今は、私たちにできることは、ご冥福をお祈りすることと、宿沢さんが目指していたことの実現に向けて頑張ってくれる人を応援することのみでしょう。
コメントする