貴ノ花が亡くなった。正確には「先代貴ノ花」とか「現二子山親方」と書くべきなのだろうが、私個人としては、「貴ノ花」と言えば、この貴ノ花しかいないので、あえてこう書かせていただく。
父が相撲が好きだったところから影響を受けてか、物心つく前からテレビで相撲を見ていた。ごたぶんに漏れずという感じだが大鵬のファンで、引退のときの新聞の切り抜きを今も置いてある。そして、そのあと、小学校から中学校のころに貴ノ花のファンだった。友だちと相撲を取って遊ぶときに、自分がファンの力士の名前をしこ名にしていたのだが、私はもちろん貴ノ花を選んでいた。身体的な不利にも関わらず、勝負の場でできる限り頑張る姿は見た人誰もの印象に残ったことと思う。あとから聞けば貴ノ花には元々素質があったわけだが、子どものころにはそんなことはわからなかったので、自分も何かのときにとにかく頑張ることだけはやっていた。そういう子どもはこの時期にはたぶんたくさんいたのではないかと思う。
横綱・北の富士とのかばい手となった勝負とか、もはや伝説的といえる驚異的な粘り腰は、名勝負の写真集のようなものに必ずいくつか出てくるが、そこに出ているものはもちろん、それ以上にたくさんの名勝負(というか、貴ノ花ファンから見てのという限定がつくものもあるだろうが)が、記憶と印象に残っている。
優勝したときももちろん喜んだし、横綱にもなってほしかった。しかし、今にして考えれば、横綱になることで早くに引退してしまうことを恐れる気持ちもあった。貴ノ花個人にとっては、もちろん横綱になりたかっただろうし、早くに引退して体の酷使がいくらかでも少なければ、もっと長生きしていたのかもしれない。でも、ファンとしては、とにかく土俵の上の貴ノ花を少しでも長く見ていたかった。その意味では大関のままの方が良かったのかもしれないという気持ちもある。
55歳とのこと。もちろん、現役でこれから一時代を築きそうだったときの横綱玉の海の死(27歳)とは比べられませんが、やはり早すぎる死という印象をぬぐえません。一つの時代の区切りが来ているという印象も強いです。
今は、とにかくあの数々の名勝負を思い返しつつ、貴ノ花と同時代に生きることができ、テレビで間接的ではあるものの、それらの名勝負を生放送で見ることができたことに感謝している。ふつうならば、ここで「冥福をお祈りする」といったことを書くのだろうが、そんな決まり文句のようなもので表すことができるところを越えているので、ここにはあえて書きません。 上記の文章の中には、失礼な部分があるように感じる方もおられるかもしれませんが、土俵の上での貴ノ花の大ファンの一人の偽らざる気持ちですのでご寛恕ください。
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